責任を持つということ

bon-naoto2006-05-27

「責任を持つ」と言う言葉がある。その根拠となるものは「自分の感覚」であり、結局これしかないのだろう。


「自分の感覚」が信じられないと、どうなるか。例えば、判断の根拠となるものが「誰かの言葉」になったりする。「偉い人がこう言っているから」ということで、自分の判断に変えたりするものだ。


しかし、これこそ「無責任の極み」というものだ。状況も違う、求められる価値観も違う、時代背景も違う、そうした中で、自分の感覚を通さず、人の言葉をそのまま自分の行動の根拠にしようとするのは、無責任極まりない。厳しく言えば「人間としての自分の可能性を放棄している」ということになるのだ。


先人の言葉や、概念を参考にするのは大いに役に立つ素晴らしいことであるが、でも、その概念に対して、「私は○○という感じがする」とか「私の身体はこんな風に反応している」とあくまでも自分の感覚に照らして検証しなければならないと思う。


身体に聞いてみると、また違った答えや違った見方が返ってくるかもしれない。その人がその瞬間に出している答えというものは、一度として同じものはなく、本来必ずオリジナルなもののはずなのだ*1

*1:写真は「toshi」の写真箱