2008-02-01から1ヶ月間の記事一覧

痛みを通して、人とつながる

痛みがあるのは、身体があるから。それは、この世界に生きている証だ。痛みを通して、人の痛みを知る。痛みを通して、自分も人も痛めつけないように優しい気持ちを知る。痛みを通して、人の痛みを想像する力を知る。痛みを通して、人と共感できること、つな…

右の頬を打たれたら、左の頬も出せ

キリストが聖書で言っていた言葉。 右の方は、予期せぬ出来事、不意打ちのようなトラブルやアクシデントだが、左の方には自分の主体的な意志が入っている。主体的な意志をもって物事に対処せよ、と教えている。

透明

湖の水も透明であればあるほど奥底まで見通すことができる。 同じように、心も透明であれば、人の心の奥底まで見ることができるだろう。

根性

「根性」とは、数々の困難にもめげずに、気を取り直して、前に進んでいく力のことをいう。 これは、人間にとって、特に男にとっては非常に大切なものである。何事につけてもそうだが、全てが順風満帆に行くわけもなく、行く手に様々な障害が立ちふさがるのが…

憂きことの

なおこの上に つもれかし 限りある身の 力ためさん 江戸時代の陽明学者、熊沢蕃山が詠んだ歌。

無名の偉人

いまここにこうして生きていられるのも、名を残すことなく、ただ人々の幸せのみを願って生き、死んでいった「無名の偉人」たちの働きのおかげなのだろう、きっと。 教科書には載らない。もう、その人のことは、誰も覚えていない。 そんな人たちの仕事や、思…

自分で選んでいる

自分に起こる出来事は、自分で選んでいる。まったく自分と関係なく、外から偶発的にやってくるように思えることでも、では「何故その時その場に居合わせ、その人からそのように言われたのか」ということをよくよく振り返って見れば、自分のあり方と無関係で…

心は料理

心は料理のようなものである。素材を組み合わせて、煮る、焼く、揚げるといった調理を施し、調味料で味付けをする。理想的な自分の状態とは、実はそんなふうにつくることができるのだ。 子供は外界から刺激を受けることによって、新しい情報を手に入れ、成長…

過去への執着を捨てて

過去に執着するとその分だけ自分が弱くなる。成功にせよ、失敗にせよ、過去に執着すれば、それがそのまま「捨てることのできない弱さ」を作り出してしまう。歳を取るのも速くなる。

答えなし

年齢を重ねるにつれ「答えなし」の問題が増えてきているような気がする。学校での試験勉強の時は明確に「答えがある」問題であり。その「正解」に短時間で到達できれば、よしとされた。思えば、のどかな時代であった。 でも、この世界ってそんなに簡単に答え…

怒りとのつきあい方

怒りはたいへん強力なエネルギーだが、その方向性は「破壊」である。だから、怒りにかられて、自分をコントロールできずに行った行動は、えてしてよくない結果を生む。 怒りはもともと自分を守るための感情である。外敵から身を守るために、身体を緊張させ、…

生きていることは学ぶこと

多くの失敗を繰り返しながら人は成長していく。これは誰でも同じで、このプロセスを経過せずに成長する人はいない。誰もが発展途上にある。そもそも「悟り切った人」などこの世に存在しないのだ。 「生きている」ということは、そのまま「学び」ということで…

業(カルマ)

自分が生まれてきた時代や国、社会の状況や受けた教育、親、教師、友人などの出会った人たちなどなど、全ての経験をベースとして、今の自分が存在している。それは、いくつもの様々な糸が縦と横に紡ぎだされ、絶妙なバランスで織り上げられている布のような…

痛みを共有する

もともと「人の痛み」とは「自分の痛み」のことではなかったか。たまたま身体が違うので別なもののように見えるだけで。

上機嫌

上機嫌の作法 (角川oneテーマ21)作者: 齋藤孝出版社/メーカー: 角川書店発売日: 2005/03/01メディア: 新書購入: 14人 クリック: 140回この商品を含むブログ (150件) を見る3年ほど前に出たこの本をなぜか読み返してみたくなった。「『上機嫌』を技にする」…

ただやることの難しさ

日本韓氏意拳学会 Official Web site前から気になっていた韓氏意拳の体験講習会に行ってきた。講習会では「形体」と呼ばれる、体操のような動きと、站樁の初歩的な動きを教わった。 求められているのは、ひたすら「自然な動き」である。当然ながら人間は生物…

答えを出す

お前は何故生きているのか? 今この瞬間に答えてみよ。 この問いに答えは出ないが、「答えじゃない答え」はいつもここにある。

自分の真の姿を見ること

自分の真の姿を見つめることは、たいへんな恐怖を伴うことかもしれない。だからこそ、普段はなるべく見ないようにしているのだ。平常時に「これが自分」と思っている以外にももっと違う自分がいるかもしれない。それは普段は自分と認めないような自分である…