心のある技

bon-naoto2007-09-17

ただの「一見きれいな動き」と、「本物の技芸」との違いは何だろうと考えてみるに、それは「その中に『人間』が見えるかどうか」ということではなかろうかと思い至った。別な言葉で言えば「心がある」と言ってもよい。「仏作って魂入れず」という言葉もある。


本物の技とは、単に表面的な動きのレベルの問題ではなく、究極は「人間の中身」の問題である。だから、上っ面だけ動きを追求しても決して身につけることは出来ないのだ。勿論、動きそのものに着眼する見方はとても大切であり、否定はしない。だが、動きさえよければ、それでいいというものではない。そこを間違えてはならない、と思う。


動きは、現象として現出した「結果」である。それを生み出しているものは、その人の「心」だ。その「心」に触れなければ、その技も体現することはできない。単なる小手先の技術でどうにかなるものではない。


お金があれば、欲しいものを買うことができるが、この「心」は金を出しても買うことはできない。そこも間違えてはいけない。お金を出して習ったからそれで身につくか? 否である。本当に自分がそれを身につけたかったらそれを体現するための努力が当然必要となる。当たり前のことである。結局は己の心の問題となるのだ。


心を打つのは、そこに心があるから、真剣と真剣とのぶつかりあいがあるからだ。*1

*1:写真は「toshiの写真箱」