わがままに徹すること

←リンクにある、野口体操教室サイトより、たいへん気に入った言葉があったので、そのまま引用させていただきたい。


「 わがままに徹すること、それによってしか責任をもつことはできない。
自分がほんとうにどうしてもやりたいことは何か、
どうしてもこのようにしなければいられないというやり方は何か。
それがほんとうにわかったら、いや、わからなくともよい、
まるごと全体の自分が、ほんとうにどうしてもと感ずるのなら、
まったく自分勝手にやってみることだ。
そうするより他に自分が生きている実感・生きがいは生まれてこない。
自分の感じている一番大事なものが、他人に通じようが通じまいがそれは二の次のことだ。」
野口三千三


うすうす感じていたことではあったが、この様に明解に言って貰えるとたいへんありがたいと思う。


どうしても「わがまま」になりきれない自分がいる。人の顔色を伺い、人の機嫌を損ねないようにし、本音を出すのを避け、当たり障りのない話題を口にしようとする自分・・・・・・それは、社会を生きていくための潤滑油、一つの知恵なのだろうが、それにしても、俺の人生って「油」だったのかい?


本当の自分に向き合うことを無意識のうちに避けている。色眼鏡をかけて世界を見ている。それは、いつしか身に着けた自分を守るための反応だったのかな。


社会の中で生きていく知恵、それはそれでいいが、しかしそれが全てではない。この世界でたった一人の自分。何百億年前の過去と、何百億年(あとどのくらい続くか分からないが)先の未来の間の、ほんの何十年の間しか自分はこの宇宙に存在できないのだ。もてあましては勿体ない。ましてや、「自分の人生はこの程度だ」などと、自分の可能性をあきらめてしまうことなど本当に勿体ないことだ。


真実を見据えるとは、自分がかけている色眼鏡を外していくこと。たまねぎの皮をむいていくと中の芯が現れてくる。時間もかかるだろうが、ひとつひとつ向いていけば、自分の中身に少しずつ近づいていく。しんどい作業だ。向き合うには勇気も要る。汚いものや嫌なものも見るだろう。でも、やっぱりやるしかないよなぁ。