今の自分の状態は自分で全部決めている

たった今現在の自分・・・・・・


何を感じている?
何を考えている?
気分は?
呼吸は?
身体の緊張(リラックス)具合は?


というのは、結局全部自分が決めていることだ。例えば、「そういえば、昼飯に食べたものがちょっと悪かったから、今お腹が痛い」ということもあるかもしれない。普通に考えれば、その昼飯によって今の自分の状態が決められているように思える。しかし、それを食べたのは自分である。カンが良ければ、他のものを選べたかもしれないし、一口食べた時点で「やばい」と気づけたのかもしれない。


そして、「悪いものを食べた」→「お腹が痛くなる」というのは、人間にとって極めて自然な反応である。痛みがなかったら「これは食べちゃだめだよ」ということを知ることができない。痛みによって人間は学習する。「不快になる」ということは、きちんと意味のあることなのである。


この意味で「不快を不用意に避ける」ことは、学習の機会を自分から放棄していることになる。正確には、「不快を感じている自分を見ないようにすること」だろうか。「不快だから避けよう」「痛いから見ないようにしよう」「辛いことが浮かんできたから心の中から消してしまおう」・・・・・・そう、意味のあることを見ないようにしているのである。


ただし、本当にしんどいときには、直面するのは難しいときもある。その時はある程度の時間が必要になるときもあるだろうが、それにしても、「過去に起こったことが過度に今の自分に影響を与えている」と考えているしたら、それは、不要な思い込みというものである。こういうことは、結構多いのではなかろうか。


「今の自分がこうなってしまったのは」に続く言葉として・・・・・・


「親が自分を理解してくれなかったからだ」
「会社が俺の仕事を分かってくれなかったからだ」
「子供の時にひどくいじめられたからだ」
「あいつがあの時あんなひどいことを言ったからだ」・・・・・・


などと言いたいときがあるかもしれない。しかし、今の自分のあり様は自分が決めているのである。過去にそういうことがあったということは事実だが、しかし、問題はその事実に関する解釈。過去の出来事が今の自分に決定的に影響を及ぼしていると考えると、心は自由になれない。


「自分にはトラウマがあるから」などと考えていると、そこで自分を安心させてしまう。でも、同じ出来事に遭遇しても全く傷つかない人もいるのである。それは、単なるその人の「反応のクセ」「心のクセ」の様なものだ。「トラウマ」という概念がその人の成長を奪うこともあるだろう。


また、時には心に沈潜していた昔の出来事がよみがえってきて、急に呼吸が荒くなり、憤ったり、悲しくなったり、不安になったりということがあるかもしれない。しかし、それは、その過去のイメージに対し、身体が反応しているだけであって、それ自体も極めて自然なことである。「幸せ」とか「不幸」などという概念とも関係ない。ただ単に、身体が頭に浮かんだイメージに対し物理的に反応しているだけのことだ。


その事実を冷静に見ることができれば、必ずしも「過去のそのイメージに対し、決まりきったその反応をしなくてもいいよな」ということも見えてくるのではなかろうか。例えば、


イメージA→怒り
イメージB→悲しみ
イメージC→不安


などの、そのイメージと固着的に強く結びついている反応があったとしても、必ずしもそれを今の自分が選ぶ必要はないのだ。他の反応も今の自分は選ぶことができるし、また、選んでいいのである。今の自分が最も望むあり方を自分で選択して、決めていいのだ。


それが「自由」というものであろうし、「自由」である人が決定した事項にはどんな小さなことであれ「責任」が発生する。そういうものだと思う。