内部と外部

bon-naoto2006-12-18

15年くらい前に以前に読んだ哲学の解説書に「『外部か内部か』と言った問いそのものが無効であり、『外部』とか『内部』とかと言えないような意味で『外部は内部』なのだ」というくだりがあった。そのときは、さっぱり理解ず、いくら頭で考えてもこの意味が分からなかった。


不思議なもので、随分と年月は経つが、この言葉の意味が分かるようになってきた。


純粋な意味での「外界(=外部の世界)」などというものは存在しない。「主観」と「客観」という枠組みでも、純粋な「客観」というものは存在しない。人間がモノを認知する際には、感覚器官からきた刺激を脳で処理し「今私が見ている世界」が作り出されている。「私」というフィルターを通してしか、人間は世界を認識することはできないのだ。


なんとなく「外の世界」というものがあると思っているが、でも、実は全部自分の身体を通して、脳を通して作り出された「中の世界」である。今自分が見ている風景、聴こえている音、触れている風は、全部脳の中で処理されて作り出されている世界なのだ。この見えている世界そのものが、私の脳の中で起こっている反応であり、「この世界が私そのもの」であるともいえる。


そうすると一見確かなように見えるこの世界も、結構あやうい幻想のようにも思えてくる。


目を開けば、外の景色が飛び込んでくるが、でも、この「見る」という行為さえ、後天的に人間が学習したものである。赤ん坊は、外に何があるのかを見ることはできないが、でも、光の刺激はちゃんと受け取っているそうだ。次第に単なる光の束から、外の世界にあるものを意味づけて区別できるようになり、ものが「見える」ようになっていく。あまりにも当たり前のように思える「見る」という行為でさえも、自分が世界を解釈する方法を学んだことによるものだ。


人間は自分の解釈で世界を見ている。「自分の解釈」通りにこの世界は存在しているのだ。それは、これまでの経験から学習した反応のパターンと言ってもよいだろう。黄色いサングラスをかけている人には、世界が黄色く見え、赤いサングラスをかけている人には世界が赤く見える。


成功哲学などで「強く思えば望んでいる世界が実現する」とよく言われるが、これはむしろ逆で「思っているようにしか世界が存在しえない」のだから、当然といえば、当然のことだ。では、何故なかなか望みが実現しないのかというと、問題はむしろ「本気で思えない」ようなどこか無理があるテーマを一生懸命思い込もうとすることにあるのだろう。無理は駄目だということも、ホントは自分も知っている。*1

*1:写真は「AMANO KAZAOTO 高画質館」