対話

bon-naoto2007-02-18

「対話」とは理想的なコミュニケーションのことだ。情報のやり取り、キャッチボールと言ってもいい。野口体操にも「対話」の動きがあり、これは言語でなく、体操を通して相手の身体を「貞く(きく)」試みだ。対話でやりとりされるものには「言語」だけでななく、その人間のあらゆる情報が含まれる。


親から子供へのコミュニケーションは「対話」ではなく、親から子という一方的な情報のやり取りからスタートする。乳幼児は世界がどうなっているのかを把握することから認識がはじまる。その際に、乳幼児は、親からの情報もまずは一方的に受け取るしかない。また、子供が成長しても、親や教師は、子供へ人間として社会の中で生きていくルールを教えていくが、これも基本は一方向である。


子供は親や教師の言うことに対して「反応」はするだろうが、でもまだこの段階は「対話」とは言えないだろう。


「対話」はお互いの人格を尊重し、相手と自分が公平、平等の関係になったときに始めてスタートする。キャッチボールは、投げ手と受け手が同じ役割を交互に入れ替わることにより成立するのだ。


理想的な「対話」は余計な先入観や偏見を含まない。先生の言うことだから正しいに違いないとか、偉い立場の人だから、自分の意見を控えようという思考が働くと、「対話」から離れてしまうのだ。


もちろん、社会的な立場や関係性、状況などで、表現は変わってはくるだろうが、外言として表現される前の情報処理については、できるだけ純粋でなければならない、と思う。自分と相手を同じように尊重する。相手の意見をしっかりと受け止めて、そして、自分の意見を的確に相手に伝えていく。これが「対話」である。


しっかりと「対話」が出来る人が成熟した大人なのだと思う。相手のすべてを尊重し丁寧に受け止める。これが本当の「礼儀」というものだろう。


きちんと「対話」ができれば、余計ないさかいや、わだかまり、感情のしこり、滞りなどは、ずっと少なくなるはずだ。


「対話」のできる人間を目指していこう。*1

*1:写真は「AMANO KAZAOTO 高画質館」