不快なものほどつながっている

bon-naoto2007-10-14

久しぶりのブログ更新。本日の野口体操教室は「不快現象説」であった。



その存在自体に、思わず「不快」を感じさせる動物がいる。ナメクジ、蛆虫、ヘビ、ゴキブリ、ミミズ、ムカデ・・・・・・などなど。しかし、その「不快」は、何ゆえに生じるのかというと、実は人間の本質的なメカニズムが彼らとよく似ているからだというのが野口師の説である。


人間の身体は7割が水分でできており、それぞれの組織は粘膜で覆われていて、独特の運動(うごめき)を行っている。つまり、ナメクジや蛆虫なんかと実は非常に近いのだ。人間と彼らは、表から見ると全く違って見えるけれど、内部からみると殆どそのしくみはおなじであると言ってよい。


彼らを見るときに生じる「不快」は、人間の持っている秘密にしておきたい深奥の部分をいきなり見せられるような気持ちになるからだろう。いきなり自分の裸を人に見られたら、よほど人間のできた人でない限り、不快な気分になるのに近いかもしれない。それを考えると、人前で裸で踊るストリッパーや、セックスを商品にしているアダルトビデオの女優なんかは、ある意味、卓越したすごい存在なのかもしれない。


さて、今日のレッスンの中で心に残る言葉があった。それは、「不快なものほど快感に変わる可能性がある」ということだ。自分と深くつながりがあるからこそ、不快を感じるのだ。そもそも自分と何の関連性もないものには、何も感じないものである。


これは、人間関係にもそのまま当てはまる法則である。どうにも「いけすかない奴」というのはいる。頭からぬぐい去ろうとしてもしつこく自分から離れない。何ゆえ自分はそんなに奴のことが気になるのだろう・・・・・・? それは、自分が奴と非常に似通った部分を共有しているからだ。いけすかない奴はそのまま自分を映し出す「鏡」なのである。


これまで自分はこのことを認めたくなかった。あいつと自分が同じだなんて、考えただけでも許せん! しかし、そろそろ年貢の納め時で、自分もこのことを素直に認める時期に来ているようだ。結局同じ人間だもんな。


人間にはいろんな「縁」がある。すなおに相手を認めそのまま結ばれる縁もあれば、紆余曲折を経てその大事さがわかる縁もあろうというものだ。いろんな人がいて、いろんな出会いがあるのもまた楽し。不快な人はありがたい存在なのだ。*1

*1:写真は「toshiの写真箱」 蓮は泥の中に咲きます