人間のあがき

bon-naoto2007-10-15

人間ひとりはとても小さな存在である。一生も長いように思えてとても短い。宇宙の大きな営みに比べれば、どんなことをやっても無駄なあがきにしか思えないときもある。


人間の死は全ての死であるのか。結局いきつくのはこの問題である。自分の死によって、全てが無になってしまう。だから、生きている間に欲しいものを手にいれ、やりたいことを何でもやってやろうと思う。死んだらそれまで、所詮この世界はやったもん勝ちだ・・・・・・という思いが人間を悪あがきに駆り立てる。それは、自然に対する挑戦と言えるかもしれない。でも、それは決して勝つことのできない戦いだ。宇宙を相手に一人の人間が何をやっても勝てる訳がない。


これまで自分の周りにいた人も殆どは健在であるものの、先に逝ってしまった人も中にいる。でも、誰かの死によって、世界が終わったかというとそんなこともなく、静かに世界はそのままの姿で継続している。だとしたら、自分が死んだ後の世界もどうなるかおおよその予測はつく。全く静かなままで何の変化もなく、世界はそのまま進行していくに違いない。俺一人の死など、世界にとっては本当にどうでもいいことで、全く何の変哲もなく世界は静かにそのまま継続していくことだろう。


そして、後に残った人たちが、そのまま、この世界を動かしていくだろう。この世界の中で生き、そして、その人たちもいつかはこの世での役目を終える。そして、また後に残された人たちが、世界を創っていく。そんな風にして、歴史は繰り返されてきたし、今まさに現存している世界もその結果としてここにある。この世界はそれこそ無数の屍の上に成立している。


現象面での肉体は必ず滅びる時が来る。しかし、この身体を動かしているしくみ、生命という偉大なメカニズムは40億年も変わらずにずっとそのままだ。この生命のしくみを仮に「魂」と名づけたとすれば、魂は確かに不滅なのである。誰の身体にも、また、どんな生命にも同じように魂が宿っている。


また、この生命のしくみを人格と結びつければ、「不滅不変の私がずっと生き続けてきた」ということになるだろう。


現実の身体はどんどんその姿を変えていく。新しい生命が生まれては死んでの繰り返しで生命はその進化を遂げてきた。しかし、その背後で全く変わることがない普遍の存在がある。全く変わらないのであれば、「時間」という概念もない(必要ない)ということになるが、そこまではよく解らない。


そう、まさに今この俺を動かしているメカニズムも、永遠普遍のものなのだ。自分が死んでもこのメカニズムは全く変わることがない。どんな人間であれ、永遠普遍のメカニズムをベースにして生きている。


「生きている」ということは、あまりにも当たり前のことだから、その意味がどんなものなのか、改めて省みられることは少ない。ずっと電車に乗っていて外の景色を見ていれば、その外の風景が当たり前のように思えてきて、自分が電車に乗っていることを忘れてしまうようなものだ。でも、自分を動かしているしくみが、永遠普遍のものだという事実を改めて認識するととても安心感がある。


話を始めに戻すと、この人生は短い、儚いものであるし、一人の人間の一生でできることなどほんとにたかが知れている。大きな宇宙の営みからみたら、ゴミのようなものだ。


しかし、だからこそ一人の人間の一生には大きな意味があるのだとも思う。たかが知れているからこそ、限りがあるからこそ意味がある。何をやるかを真剣に考えなければならないのだ。そして、人は一人一人置かれている環境が違うからこそ、やらなければいけないことも違う。何をやるためにこの世に生まれてきたかという「使命」も確かにあるのだ。


所詮何をやっても無駄なあがきと言えばそれまでだが、真剣な意味のあるあがきは「使命」という名で呼ばれる。*1

*1:写真は「toshiの写真箱」