嘘をついて安心する心

「自分と敵対する相手」というのがいる。でもなぜそれが想定されたのか? また、想定する必要があったのか? それは、その「仮想敵」に対立する自分のイメージ=価値観を守りたいがためである。


鍵は自分の心の中にあるのに、多くの場合それに気づかれることもない。実は全部自分の心の中で起こっていることであるのに、それに気づかれることはまれだ。


そして、現実の世界で、相手に責任を押し付け、「相手が悪かった」ことにする。そうすることにより、自分の心の安定を保っている。これこそが「自分」であると信じて疑わない、自分の価値観をである。


でも、時にそれは「嘘」となる。認めたくないことであればあるほど、人は自分に「嘘」をついて自分を安定させようとする。


安定を失うのは、恐い。ずっと何かに支えられてきたのなら、そこから離れるのは恐いものだ。時にそれは「死の恐怖」となって襲われる感じがするかもしれない。


でも、この「心のからくり」が分かれば、わざわざ「嘘」をつかなくても、いいことに気づく。「嘘」つくことそのものが絶対なものではなく、そもそも「嘘」なのであるから。


「価値観A」が存在すれば、それと対立する「価値観B」があっても別に構わないだろう。両方あることを認めた上で、自分の責任と判断でどちらかを選べばよい。でも、どちらの立場も同時に認めることは、どちらかにしがみつくのに比べれば誠に不安定である。


でも、本来人間が生きるということは、かように不安定なものなのだ。でも、それに気づいたらそっちの方がずっと面白いことに気づくだろう。スキーもサーフィンも安定していたら全く面白くないだろう。常に不安定の中を「乗っていく」からこそ、面白いし、やりがいもある。人が生きるということも同じことである。