人を傷つけることは自分をも傷つけること

ボディ・コーディネーションの坂本先生(MICASA SUCASA)が、先日の講義でおっしゃっていたが、「本当にプレゼンスの状態になったとしたら、相手の痛みを自分もダイレクトに感ずることになるから、無闇に人を傷つけるようなことはしなくなる」とのこと。


徒に人を傷つけるときというのは、プレゼンスの状態ではない。怒りが沸いてくるときというのは、誰にでも多かれ少なかれ経験のあることであろうが、頭に血が上り、周りが見えなくなる。そして、対象を傷つけ、破壊しようとする。


しかし、プレゼンスの考え方からいくと、確かにそれによって確実に自分も傷ついているのだけれど、ただ、それを見ないようにしているだけということになる。自分にも必ず影響は及んでいる。普段の自分から切り離して、怒りのモードに自分を持っていったとしても、人を傷つけたことによる痛みから自分が解放される訳ではない。免除はされないのだ。


しかし、時には、相手にきついことを言ってまでも、伝えなければならないこともあるだろう。相手を傷つけることによって、自分も傷つくかもしれない。しかし、それでもそれ以上に意味があると判断されることならば、やらなければならない。


その時は、当然自分にも覚悟がいる。相手の痛みをそのまま自分も引き受ける覚悟である。本気でなければ、とてもできるものではないだろう。


その覚悟もなくして、人をやたらと傷つけたりしているのは、自分の心の傷を人に投影して、解消しようとしているだけの話である。こういう人は、権威を笠に着て、自分が傷つかないポジションに身を置き、「教育」と称してひどいことを言ったりする。


こうした「教育」は、いずれは破綻するだろうが、結構あるケースなのではないだろうか。「おまえの為を思ってやってるんだ・・・・・・」みたいな感じで人を傷つけて本人は満足しているが、しかしその美しい言葉の裏にある本心は、自分の都合しかなかったりする。「美しい言葉」や「派手なパフォーマンス」には、注意が必要だ。「なぜ、その人がそういうことを言ったりやったりするのか」ということをよくよく考えた方がよい。


やはり、人間同士の関係というのは、フィフティ・フィフティがよい。社会の中で色んな関係というものはあるが、根本の人間同士の関係は対等なのがベストだ。師弟関係も、根本は対等であるからこそ、情報が伝わるのだし、自然と尊敬の念も沸いてくるのだと思う。