心を込める

bon-naoto2005-11-21

当たり前のことだが、何をやるにせよ「心を込める」ということがなければ、上手くいくことはありえない。


身体のことに関してはどうなのだろう。「心ここにあらず」という気持ちでやって果たしてうまくいくものかどうか。


私は、「最終的には心も身体も全きひとつのものである」と考えている。人によっては、自分の肉体のみならず、この世界に存在するもの全てが「ひとつの私」である、という人もいるが、私は、とてもそこまで言える程の境地まで到達できてはない。何とかして一歩でもそこに近づきたいと思っているのだが。今のところ自分の中では、「大いなる仮説」であり「到達すべき目標」である。


身体は物質である以上、「物質」と「精神」という二元論的な見方も確かにできるのだと思う。しかし、この心身二元論を押し進めると、「練習をやっているときの意識なんてどうでもいい」「試合に勝てれば、心なんてどうでもいい」「パワーとスピードさえつけばいい」「人を傷つけても自分が強ければそれでいい」といった考えが生まれてくる。


本来スポーツとは人格練磨と結びついたものではなかったか。しかし、最近のスポーツ界を見ているとそうでもない様だ。試合に勝つためにあらゆることを犠牲にし、自分の心の練磨を怠っているアスリートも多い。それは、人間としてのバランスを欠いたあり方だ。「試合に勝つことが全てだ」という結果主義に走ると、往々にしてそういう結果になりやすい。


例えば武術だと、お互いに本気でやりあったらどちらか一方が死んでしまう。それを避けるために磨いた「技」というものは、単なる「技術」ではなく、相手に敵愾心を起こさせないような人格の練磨も含めた「全人的能力」というべき「技」であった。それは、相手と敵対するのではなく、むしろ調和し一体化する能力である。ここにくると「技」と「心」の境界はなくなってしまう。


ところで、文字で書くことの怖さは「分かった気になる」ということである。言語の「抽象化機能」によって、体験しないことまでも頭の中に整理・分類されてしまうのだ。でも、自分で体現しなければ、嘘をついたことになる。体現できてはじめて「分かった」と言えるのだ。*1


今日の一句:あらゆることに、そして、あらゆる瞬間に心を込める

*1:写真は「toshiの写真箱」