唯情報論

bon-naoto2005-11-28

野口体操の、野口三千三先生の理論に「唯情報論」というのがある。「その人が感じる実感」を何よりも重視した野口先生だから、「唯何々論」という一つのテーゼに収斂するような言い方を好まれなかったのだが、その野口先生が「あえて言うとするならば」ということで考えられたのが「唯情報論」であった。


「私とは何か」とは、人間にとって根本をなす哲学上の大命題である。それに対する一つの答えとして「私とは情報である」ということが言えるのではないか。


人間は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感(そしてもしかしたらあるかもしれないけど第六感)による感覚によって情報を得ている。それが、人間に蓄えられる。蓄える場所は脳細胞と一般には言われているが、あるいは全身の細胞全てかもしれない。とにかく情報が蓄えられ、そしてその情報が取捨選択されて、日々刻々と整理されているのだ。


乳児はまだ目が見えないと言われているが、光線は目にきちんと届いているのだそうだ。ただし、まだそれを情報としてきちんと整理できないために、傍から見ると、見えていないように見えるだけなのである。


私たちが「ものを見る」ことができるのは、目の細胞が光を感知しているからなのではなく、長い時間をかけて、目から入ってきた光の情報を、意味づけて自分の中に情報として取り込む力をつけてきたからなのだ。


視覚だけではなく、他の全ての感覚についてもこれは言えるだろう。感覚を通して入ってきたものの結びつき、そのイメージのつながりこそが「私」なのである。


さて、この「唯情報論」から「気を練ること」そして「人間を練ること」を考えてみたい。続きは明日。*1

*1:写真は「toshiの写真箱」