気を練ることと人間を練ること−唯情報論から
さて「気」というものは、漠としていて定義するのが難しい。「気」などないという人もいるし、さりとて全く否定するのはいかがなものかという「気もする」(まさに! こんなところでも「気」は出てくる)
唯情報論でいうと、「気」も情報ということになるが、この説明はスッキリ来る気がするのだ。生命体が、自らの維持のために必要とする情報。生命エネルギーとも呼ばれるべきものなのかもしれない。「気」がなくなると、生命は死んでしまう。唯のタンパク質の塊に戻ってしまうのである。
生体が外界からの情報を取り入れて、自らの中で情報を整理する。必要なものは取り入れ、不必要なものは排除する。「気を練る」とは自らの内部にある情報をより洗練されたものにする、ということではないか。
自分の中にある、まとまっていない情報を統合し、整理する。それが「気を練る」ということであろう。情報が整理できれば、物事の処理能力や認識力、判断力があがる。ちょうど綺麗に整理されている本棚からならば、必要な本をすぐに取り出せることに似ている。雑多に本がばら撒いてあるところなら、必要な本を探すのに時間がかかりすぎてしまう。
「気の練れている」人は、ものごとの判断能力に優れる。宮本武蔵も言っていたが、「一芸を極めれば万事に通ず」で、他のあらゆるものとの関係性も見えてくるだろう。いわゆる「達人」という存在である。「達人」とは「自らの情報処理能力を極限まで高めた人」と言えるかもしれない。
そして、「気を練ること」はそのまま「人間を練ること」に通じている。自分の中にある「人情報」を統合整理できれば、他の人の立場や気持ちが理解できる。その人の情報処理のクセや特徴が「個性」といわれるものであり、また、それが進んで、多くの人のことが理解できる存在がいわゆる「人格者」というものであろう。
外部から受け取った情報は、単なる「素材」に過ぎない。それを自分の中で統合し、整理し、処理していく過程で、「実際に使える情報」に変わっていく。そういうプロセスを経て人間が磨かれていくのだ。*1
今日の一句:生きることは情報を処理すること
*1:写真は「toshiの写真箱」