感情を見つめる
怒り、悲しみ、寂しさ、嬉しさ、孤独感、恐怖、優越感、誇り、楽しさ・・・・・・などなど、人間には実に多くの「感情」がある。そして、強い情動が襲ってきたときは、自分の心がそれ一色で塗りつぶされてしまう。
例えば、「怒り」に囚われているときは、自分を冷静に観察することができない。過去に起こったことがよみがえってきたりすると、自分の心がそのシーンを再現し、「心ここにあらず」の状態となってしまう。とっくに過去のことになってしまって、今となってはどうにもならないことなのに、スイッチが入ると、過去のシーンが再現されてくる。
- 作者: ケンウィルバー,Ken Wilber,伊東宏太郎
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 1999/10
- メディア: 単行本
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自分が「自分自身」だと信じて疑わない「感情」「感覚」「思考」「記憶」「体験」とは、実は真の自分自身ではない。それらが知ることができるものである以上、真の知る者ではない。「それらはあなたの真の自己ではないのだから、とにかくそれらとあなた自身を同一化したり、しがみついたり、それらがあなたの自己を縛ることを許す理由は何もない」
「体験」や「記憶」や「思考」や「感情」が自分だと思ってしまうと、人はそれぞれ違っているということになる。いい体験をした人、いい思考をしている人、いい感情を持っている人が優れた人ということになる。そこに序列が生まれ、さらに極端に走ると差別主義となるかもしれない。
でも、それらが真の自己ではなく、それらを見つめる存在が真の自己だと考えると、真の自己はたった一つということになる。そこには「あなた」と「わたし」という二項対立の中の「わたし」ではなく、唯一つの「わたし」ということになるのだ。
さて、強い情動、例えば「怒り」が自分を襲ってきたときでも、「これは真の自分自身ではなく、怒りという「現象」が自分に現れているだけだ」と思えるならば、それに拘泥することなく、怒りもスーッと収まっていくだろう。「感情」も「思考」も「記憶」も自分そのものではなく、自分に関わる単なる「情報」の一つなのだ。
それには、「今の自分がどうなっているのか」を淡々と見つめていく作業が必要になるだろう。強い情動と同一化せずに。情動は情動として認め、なおかつそれを見つめていく姿勢。*1
今日の一句:情動は「私そのもの」ではない。囚われずに冷静に見つめる。
*1:写真は「toshiの写真箱」