感情を見つめる

bon-naoto2005-11-30

怒り、悲しみ、寂しさ、嬉しさ、孤独感、恐怖、優越感、誇り、楽しさ・・・・・・などなど、人間には実に多くの「感情」がある。そして、強い情動が襲ってきたときは、自分の心がそれ一色で塗りつぶされてしまう。


例えば、「怒り」に囚われているときは、自分を冷静に観察することができない。過去に起こったことがよみがえってきたりすると、自分の心がそのシーンを再現し、「心ここにあらず」の状態となってしまう。とっくに過去のことになってしまって、今となってはどうにもならないことなのに、スイッチが入ると、過去のシーンが再現されてくる。


グレース&グリット―愛と魂の軌跡〈上〉

グレース&グリット―愛と魂の軌跡〈上〉

今日読んだ本「グレース&グリット」で興味深い一節があった。トランスパーソナル心理学の第一人者ケン・ウィルバーが、結婚して直後に乳ガンにおかされた妻トレヤとの闘病を綴った名作。


自分が「自分自身」だと信じて疑わない「感情」「感覚」「思考」「記憶」「体験」とは、実は真の自分自身ではない。それらが知ることができるものである以上、真の知る者ではない。「それらはあなたの真の自己ではないのだから、とにかくそれらとあなた自身を同一化したり、しがみついたり、それらがあなたの自己を縛ることを許す理由は何もない」


「体験」や「記憶」や「思考」や「感情」が自分だと思ってしまうと、人はそれぞれ違っているということになる。いい体験をした人、いい思考をしている人、いい感情を持っている人が優れた人ということになる。そこに序列が生まれ、さらに極端に走ると差別主義となるかもしれない。


でも、それらが真の自己ではなく、それらを見つめる存在が真の自己だと考えると、真の自己はたった一つということになる。そこには「あなた」と「わたし」という二項対立の中の「わたし」ではなく、唯一つの「わたし」ということになるのだ。


さて、強い情動、例えば「怒り」が自分を襲ってきたときでも、「これは真の自分自身ではなく、怒りという「現象」が自分に現れているだけだ」と思えるならば、それに拘泥することなく、怒りもスーッと収まっていくだろう。「感情」も「思考」も「記憶」も自分そのものではなく、自分に関わる単なる「情報」の一つなのだ。


それには、「今の自分がどうなっているのか」を淡々と見つめていく作業が必要になるだろう。強い情動と同一化せずに。情動は情動として認め、なおかつそれを見つめていく姿勢。*1


今日の一句:情動は「私そのもの」ではない。囚われずに冷静に見つめる。

*1:写真は「toshiの写真箱」