「人間らしさ」を乗り越えて

bon-naoto2005-12-02

自然界の動物は、無駄な動きはしない。しなやかな動きで獲物を捕らえる猛獣といえども、自分が食べる食料を手に入れるときに、最小限のエネルギーで動くだけである。海を何千キロも旅をするマグロも、水中を泳ぐためだけに特化した体をしている。動物は動きが遺伝子的にプログラミングされているため、一つの動きそのものはすごいが応用が利かない。多少の個体差はあるだろうが、その「種」が持っている動きから大きく外れることはない。


最も自由な動きができるのはやはり人間である。人間ほど自由に動ける動物はいない。これは、やはり二本足で立ったということが大きいのだろう。支えが4本と、2本では圧倒的に自由度が違う。


それ故に人間の動きは、ホントにテンでバラバラで、見事なまでに個人によって異なる。まず、動きの学習の最大の材料となる親が人によって違うから当然だ。


しかし、この「動きの自由度が大きい」ということは、「勘違いしやすい」とか「無駄な動きもできる」ということでもある。「余計な力を抜け」とはスポーツをはじめ、あらゆる身体運動の場面で当たり前に出てくる常套句だが、そんな言葉を使わねばならないほど、人間は自由に動け、それ故に勝手なことをしやすいということでもある。


どうするか。まず、そのレベルの「人間らしさ」を捨てていくことだろう。これは、「人間でなくなる→退化する→動物に戻る」、ということではない。むしろその逆で、あらゆる動物の中で最も自由に動けるようになるまで進化した「霊長」と呼ばれる誇りにかけて、自分を観察し、無駄な動きを排除するよう努めるのである。


例えば、今、自分のどこに力が入っているのか、また、自分に加えられている力はどこから来ているのかを観察してみる。そして、自分が動くことでそれがどのように変わったのかも感じる。それを繰り返していく。一見とても地味な作業だが、でも、自然の法則(ちょっと大げさだが=宇宙の法則)に則ったとき、必ず人間は、充実感、満足感を感じるようになっているものだ。


これは、「個性をなくす」ということでもない。個々人の無駄な動きの違いは単なる「クセ」ともいうべきもので、「個性」とは異なる。本質をつかんだ人同士でも、なおも残る違いというものが「個性」なのだろう。*1


今日の一句:「人間らしさ」を乗り越え「真の人間らしさ」へ[[]]

*1:写真は「toshiの写真箱」