悪いことが起こったとき

グレース&グリット―愛と魂の軌跡〈下〉

グレース&グリット―愛と魂の軌跡〈下〉

「グレース&グリット(下)」より。トランスパーソナル心理学(いわゆる「魂」や「神」など「パーソナル」な領域を超えた(トランス)ところまで扱う心理学の一分野)の第一人者である、ケン・ウィルバーの名著。そこから印象深い一節があったので、今日はそのまま引用したい。


☆ ☆ ☆(以下引用)


ラマナ・マハリシはよくこう言っていた。「人は自分に善いことが起きると神に感謝する。しかし、悪いことが起こったときにはそうしない。そこで人はまちがうのだ」。押さえておくべきは、神はエゴのふるまいにたいして罰や報酬を与える神話的な親ではなく、すべての顕現物があまねくそなえる<真実性 リアリティ>であり<本質>(真如)であるということだ。

(中略)

善対悪、快楽対苦痛、健康対病気、生対死の二元論にとらわれているかぎり、われわれは顕現物のすべてとの非二元的な至上の一体性から、「同じひとつの味わい」をもつ全宇宙との一体性から締め出されているのだ。ラマナは、自分の苦しみ、病、痛みと仲よくなることによってのみ、生の犠牲者ではなく公平な<観照者>にして源である、<万物><真我>との、より広大でより包括的な同一化を果たすことができる、と述べている。そして、とりわけ死を友とすれば、死が究極の師になる、と。


☆ ☆ ☆(引用終わり)


そう、人は結局のところ、自分に都合のいいときだけ神に感謝するが、都合の悪いときに神に感謝することは殆どない。でも、都合がいいか悪いかは、あくまでも自分の視点、自分の価値観にすぎない。自分を正当化させるために、持ち出された「神」というのは、それこそ、自分の頭で考えだしたものであり、本当の「神」ではない。


どんなときでも、何が起こっても、「この経験をどうもありがとう」と言うことができれば、人間として、ひとつ大きくなることが出来る。あらゆるものに、あらゆる経験に「ありがとう」と言うことができるか。