ありのままにものを見る
心身がプレゼンスの状態に近くなると、意識がだんだん細かくなってくる。ものの見え方が滑らかに連続するようになってくるのだ。
そもそも自然界はアナログなものである。1、2、3とか区切られているものではなく、ずーっと滑らかに連続しているもののはずだ。
意識が外に向かってオープンになっておらず、冷静にものが見えていないと、見え方がブツ切りになってしまう。もっとひどい状態だと一つのものしか見えていなかったする。
また、自分に興味関心のあることにもえてして目が行きがちとなる。それはそれでよいが、でも、本来は目に入ってくる光はあらゆるものを映し出しているのだ。だとすれば、本来は全てのことが、目に見えているはずなのである。
「ありのままにものを見る」とは、何も不思議なことはない。ごくごく自然なことなのである。子供はいつもやっていることだ。
では、何がオープンになるのを妨げているのか。それは、自分の中にある「世界はこういうものだから、こうでなければならない」といった思い込みである。外界に対する自分の願望であったり、幻想であったりといった決め付けだ。
思えば、この世界は「〜ねばならない」「〜すべきだ」のオンパレードである。でも、それは、あくまでも一つの価値観であり、別の考えなどいくらでもあるのだ、ということは分かっておいた方がよいと思う。
本来世界とはそのままのものである。別に人がどう解釈をしようが、そのままの姿で存在しているものだ。世界に対する極端な解釈は、当人にとってもまたその人と関わる人にとってもやっかいなことになる。宗教戦争などは、まさにその類だろう。
世界をありのまま見るためには、やはり自分の身体に意識をフォーカスしていくということが、ヒントになると思う。いったん自分の認識のよりどころを確認するということになるだろうか。*1
今日の一句:自然の一部として、自然にものを見る
*1:写真は「toshiの写真箱」