人格者

bon-naoto2005-12-24

いわゆる「人格者」という概念がある。でも、何を持ってして「人格者」とするのかは存外難しいところなのではないか。絵に描いたような、道徳や倫理を説ける人のことなのだろうか。でも、何か違うような気がする。


人を殺してはいけない、物を盗んではいけない、騙してはいけない・・・・・・。などなど、そんなことは皆分かっていることではないのか。いけないことと分かっていながらも、この世界から殺人や窃盗や詐欺が消えることはない。むしろ、そのことこそが問題なのだと思う。


人間が何かの行為に及ぶには必ず原因がある。凶悪な殺人犯でも、もともとの原因をたどって見れば、必ず殺人を犯すに至った経緯というものがあるはずなのだ。


「人格」とは、結局、そうした人の気持ちをどこまで分かってあげられるか、自分の問題として理解できるのか、ということなのだと思う。本当の聖人君子とは、とても人間とはいえないような極悪非道なことを図らずもやってしまう人の性まで、見えてしまう人のことなのだ。


その原因まで見えてしまったら、徒に傷つける気にはなれない、でも、この世界の秩序を維持するためには、犯した罪を償ってもらわなければならない。そうしなければ、社会の秩序が保てないからだ。


仏教で「因果」という言葉がある。原因があって、結果があるということ。全てのことは、因果の法則で考えれば、結局それだけのことなのである。そして、因果の法則の中で生きていかなければならない人間は「業(ごう)」を背負っているという。この世で生きていかなければならない以上、みんな背負わなければいけないものだ。


辛い、痛い、誰もがみんな傷ついている。痛みを負っても生きなければいけないというのが、この世界だ。でも、やらなければいけない。本当に物事にまともに向き合うということは、たいへんなことなのだ。だから、どんな人間でも、やっぱり生きているだけで素晴らしいのである。*1


今日の一句:どれだけ人のことを理解できるだろう

*1:写真は「toshiの写真箱」