人と比べる楽しさ

bon-naoto2006-03-30

最近、その弊害が指摘されてきた「ゆとり教育」の反動からか、教科書の編修方針がまた違ってきたそうである。


また「ゆとり教育」が提唱されてきた頃から、教育において「人と比較すること、されること」の弊害も叫ばれてきた、徒に学校の成績に順序をつけることで、人と自分を比較することになり、子供の自信を失わせ、可能性をつみとってしまうというのだ。通知表とか運動会の徒競走とか。


確かに所詮、競争も、順位をつけるのもある価値基準に則って決めているにすぎない、相対的なものであると言えばそれまでのことだ。


野球で、ボールにバットを当てて飛ばすことが価値あることとされているのも、人々の間に「野球」というゲーム、そのルールに則ったスポーツということに共通の了解があるからである。そもそもボールにバットを当てる技術など、それだけではたいした価値はないではないか。「野球」というスポーツがあるからこそ、それをやっている人にとって無常の価値がおかれるのである。


そういう意味では、受験勉強で偏差値で優劣をつけるのも、会社の営業成績で順位をつけるのも、会社自体の成長が比較されるのも、ある価値基準に対し、それに関わる人たちが納得し、共通の了解があるからこそ生じることであって、絶対のものではない。社会のしくみだって時代や国が違えば、当然違ったものになる。


さて、ちょっと話が膨らんでしまったが、順位や比較も所詮相対的なものに過ぎないが、でも、比較することがいけないかというとそれ自体はとても大事なことなのだと思う。


自分が本気で取り組んでいることは、間違いなく、人と比較するのも楽しいものだ。強制的に、いやいやながらさせられる比較というのが、人の自信をなくし、やる気をなくすものなのだろう。


先生から「みんなも●●を見習うように」とか、親から「○○さんのように勉強しなさい」とか言われると、大事なことと分かっていながら、なんとなく抵抗が起こるものである。人から強制的に比較されるというのは、あまりいい気がしないものだ。


でも、自分が本気でやっている、気合を入れているものであれば、当然同じことをやっているライバルの存在も気になるものだ。そこから刺激を受けることも多い。同じ文化に関わっているということは、同時によき協力者でもあるのだ。


もちろんマイペース、「これが自分だ」というのは当然あっていいと思うけど、「これが自分だ」というもの同士が本気で戦う姿というのは、かっこいいし、見ていて気持ちのよいものだ。*1

*1:写真は「toshiの写真箱」