生きているということの不思議

bon-naoto2006-04-06

改めて不思議に思うこと。


それは「この自分が生きている」ということも確かにそうなのだが、「世界を認識しているのは『私』である」ということ。


身の回りにある世界、外に存在している世界は、普通に「ある」と何の疑問もなくみんな思っている。


でも、よくよく考えてみれば、それは、視覚を通して、聴覚を通して、あるいは、味覚、嗅覚、触覚といった感覚を通して「自分で感じ取った世界」にすぎない。自分の脳細胞の中で処理され、構成された情報でしかない。


人間の情報の処理は必ずこの経過をたどる。それ以外の情報の処理はない。純粋な「ナマ」の世界など存在しないのだ。


これって、改めてとても不思議なこと。そして、この認識のしくみはどんな人間であれ、全く同一なのだ。どんなに自分と違うと思える人間でも、また、自分と激しく対立していると思われる人間でも同一である。


何の疑いもなく「ある」と思えるものでも、実は自分の脳細胞がそう思い込んでいるだけかもしれない。いや、脳細胞がそう思ったら、確かにその人にとっては「ある」様に感じられるのだ。


この認識のしくみを、「大自然の摂理」や「神の法則」などと呼ぶとすれば確かにそうなのかもしれない。


「生きていく」ということは、そういうこと。大自然の摂理の中で、感覚によって入ってくる情報をひたすらに処理していくこと。その意味で「生きている不思議」と「ものを認識する『私』の不思議」は、全く同一のものだ*1

*1:写真は「toshiの写真箱」