言葉にする作業

bon-naoto2006-10-22

今日の野口体操教室は、「ことばと動き」の特に「成文化」についてを取り扱う。


「自分の感覚が乏しいのは、それを言葉にしていく作業を怠ってきたから。今からでも遅くはないから、自分の感覚を言葉にしてく作業をはじめよう」という、野口三千三先生の言葉がメインテーマであった。


自分の感覚を言葉に置き換えることは、しんどいことだが、それによって確かに自分が感じている感覚をより正確に捉えることが出来るし、後に再現しやすくもなる。また、人に伝達する際にもとても重要なものとなる。


「原初生命体」であるコアセルベートは、原初情報は持っているのだろうが、自分がやっていることを成文化はしていない(たぶん)。何と言っても言葉を自由に操れるのは人間の特権だ。直立二足歩行で自由に両手が使えることと、言語による圧倒的なコミュニケーション能力が、人間の最大の特長であり、それが今日の人間の文化を築き上げたといっていいだろう。「万物の霊長」と言われるだけのことはあるのだ。


「運動」と「言葉」とは、時に対立するものとして捉えられがちだ。体育会系は、文科系を「頭でっかち」というし、逆に文科系は体育会系を「筋肉バカ」なんてこともしばしばだ。「頭で考えたって身体で実際にやんなきゃ分からないよ」というのと「いやいややっぱり理屈がないとだめでしょ」という対立はこれまで幾度となく繰り返されてきたに違いない。


どっちが大事かといったら答えはひとつ「どっちも大事」。厳しいがやっぱりそれしかない。何十億年前の生命の起源の実感に迫りつつも、人類が積み上げてものにしてきた「言語」という道具を最大限に使いこなす。「万物の霊長」ならばやはり両方やらなければ駄目だろう。自分の感覚を言葉にしていく作業は、骨の折れる地味な作業だが、でもやっただけのものは得られる気がする。*1

*1:写真は「AMANO KAZAOTO 高画質館」