そんなに欲しいのならくれてやるぜ!

bon-naoto2006-11-11

自分が幼少から刷り込まれてきた「教育のパターン」というものがある。人間は物心ついたときから教育されなければこの社会の中で生きていくことはできない。幼少から狼に育てられた子供は、ある程度大きくなってから人間の社会に入れられても順応することはできなくなってしまうのだ。


それは、今の自分がこの社会で生活することを可能にしているものでもあるのだが、今となっては別の解釈が必要になるものもあったり、また既に不要なものもある。そして、教える側も神ではなく所詮人間なのであるから、完璧な情報を伝えることなどできるはずもない。


この「余計な思い込み」が、人間が自由に行動することを阻害してしまうときがある。この思い込みを発見し、新たな解釈を加え、そして今の自分に最もフィットするものに変えていくこと。これが、人間が成長することであると言えるのだ。自由になるとは、多様な解釈、多様な関係性の中で自分を選択できるということだ。


PCのソフトでも、Windowsもはじめは95だったが、98→Me→2000→XPと改良を加えていくなかで、もともとのベースは活かしながら、古い機能はなくなり、新しい機能が付け加わっている。


さて、その思い込みの中でひとつ。なんとなく私の中で染み付いていたものがあったことに気がついた。


その思い込みとは「この世の中は、食うか食われるかの弱肉強食の世界で、負けたくなかったら勝たなければいけない。いい思いをしている人がいる勝者の影で、必ず惨めな思いをしている敗者がいる。惨めな思いをしたくなかったら、自分を守り、そして社会で認められる仕事をし、社会の中で自分を有利なポジションにおかなければいけない。」


とまあ、こんな感じなのだが、これが自分を進める原動力にもなったのだろうが、それがために随分と自分に無理をし、痛めつけてきたような気がする。今となってはほろ苦く思えるのだが、この思い込みを自分で実感のもてないまま「なんとなくそういうものだろう」と信じていたのだ。「いつかこの世界が実現するだろう」と。でもいつまで経っても、その世界は実現しそうにない。


「ある理想的な生き方」というものがあり、そこにはまった人は成功、そうでない人は失敗と思っていたが、そもそもその「理想的な生き方」なるものも自分が教育によって刷り込まれて描いた幻想にすぎないのだ。人にそれを当てはめて評価することもない。単にそういうデータがあり、「そういう見方もあるよね」というだけのことだ。


誰もが、自分なりの生き方を見つければいいし、つかめばいい。それに対し、自分が自分の尺度で評価することもない。


さて、この文章とタイトル「そんなに欲しいのならくれてやるぜ!」はあまり結びつかないようでもあるが、でも今の自分の気持ちを言葉に表したらこうなるのだ。それは、過去のちまちました価値観に一所懸命しがみついていた自分に対する言葉でもあるのだろう。*1

*1:写真は「AMANO KAZAOTO 高画質館」