天才

bon-naoto2006-12-05

これまで「天才」という特別なジャンルに分類される存在があると漠然と思っていた。でも、それは正しくもあれば、間違いでもあるだろう。「天才」という言葉で喚起される概念、イメージがある。言葉で表現されるとあたかもそんな世界が存在するかのような気がする。でも、それは、自分の脳が作り出した世界でもあり、幻想とも言えるものだ。他にも「極意」とか「達人」とか「悟り」とか「聖人」とか「天国」とか、皆同じことである。


ということを踏まえて、あらためて「天才」とはどういうものかを考えてみる。


いま持っている自分の能力、その可能性が最大限に発揮されたとき、誰でもものすごいことがきっとできる。そして、その状態を世の人は「天才」という名前で呼んでいるのではないか。いまの世界とかけ離れた世界があってその世界に住んでいる人が「天才」ではなくて、あくまでも「いまここに存在している人」ということがキーとなる。


だから、限られた人だけではなく、誰にでも天才になれる素質は持っているものだと思う。問題は、その可能性が十分に発揮されないことにある。その可能性を素直に開花させればいいというただそれだけのことではないか。


巷間の「能力開発」などでは、「いまの駄目な自分が、何か特殊な魔法のような能力を身につけてすごい存在になる」というイメージがある。「いまの自分」は駄目な存在で、すごくなるためには、そこに付け加えるプラスアルファが必要なのだ。その「魔法」が商品として高い値段で売れたりする。「魔法」にいかにもったいぶったもっともらしい説明をつけるかが勝負となる。「いまの駄目な自分」と「将来の最高の自分」とのギャップがくっきりしていればいるほど、また、魅力的にもっともらしく「魔法」が説明できるほど、ビジネスとしては儲かるだろう。


でも、この話で問題なのは、前提として「いまの自分は駄目で、そのままでは能力がない」というところからスタートしていることだ。そして、こぞって人は自分の能力を高めてくれるであろうものを追い求め、自分にあれこれ加えたがるのだ。また、「いま」と「将来」が隔絶していることも問題であり、「将来」は「いま」の連続としてしか存在しない以上、必要以上に分けて考えるべきでもない。


視点を変えて考えてみると、まず「今の自分でOK」なのであり、また、「今の自分に何かを付け加える」のではなく、「今の自分の能力を阻害している因子、要因を取り去れば、もともと持っている力が発揮される」のだ。もともと持っている力が十分に発揮されたとき、それが人間として最高の状態であり、別に何か足りないものをあらたに付け加える必要はない。


遠慮することはなく、今の自分に自信を持って、自分が最高の状態となるためにそれを阻害しているものを取り除いていけばよいのだ。*1

*1:写真は「AMANO KAZAOTO 高画質館」