生命力

bon-naoto2007-01-15

「根源となる力である『生命力』を如何に発現させていくか」というのが、この間の野口体操教室のテーマであった。


「ことば」と「動き」はその発現されるプロセスにおいて全く同一であるというのが、ここ最近の教室での根底的なテーマとなっている。


ことば:生命力 → 内言 → 外言
動き :生命力 → 方向性を持ったイメージ → 実際の動き


であり、出てくるものが違うだけで、その出方は同一である。その意味で「ことば」は「動き」であり、「動き」は「ことば」であるといえるのだ。そして、その根底となるのが、生物の根源的なエネルギーである「生命力」である。


この生命力についてその後つらつらと考えてみた。


生命力は生物であれば、どんなものでも持っている。人間だけでなく、イヌやネコや、カエルやヘビ、ゴキブリ、アメーバなどどんなものにでもある。そして、生物には生きようとする力がある。死ぬまでは、自分を脅かす数々の困難に対処しながらなんとしてでも生きのびようとする。自らのシステムを維持しようとするのだ。これが、生命力の自然の働きである。


しかし、個体を維持している生命力によっても、個体がいつまでも生きながらえることはできず、子孫を残した後に個体自らは死ぬ。これはもっと大きな大自然の法則だ。でもこれも、自らの種を維持するために、より環境に適合した優秀な遺伝子を残し、エネルギーの浪費を防ぐために個体は死ぬのだと考えると、誠に合理的なこととも言える。個体が死ななければ、地球上は生物であっという間に埋まってしまい、エネルギーも枯渇してしまうことだろう。


さて、話が大きくなってしまったが、とにかくこの生命力は止まらないのだ。死ぬまでは生き続けようとする。まことに単純な原理だが、とにかく止まることがない。「動こう」とか「何かをやろう」とか「表現しよう」とか外に向かって開いていくのは生命力の自然な働きであり、自らを突き動かすこのパワーは止まらないようにできているのだ。勿論時期によっては、じっと力を溜め込んでいる冬眠のようなときもあるのだが。


そして、この生命力が何らかの形であれ、自由な発現が阻害されているとき、人は直感的にそれを「苦しい」とか「違和感」として感じる。きっと生命力同士は共感していて、自らの生命力を通してそれを知るのだろうと思う。本音で言っていないことというのは、面白いくらい人にも伝わる。川が汚れていれば、中に住む魚のことを思うと、自分も苦しくなる。


教室で「わざとらしいこれ見よがしの演技をする女優」が話題としてあがった。その舞台は私も見たのだが、演技自体は上手いのだが、こちらまで響いてこない。本気で言っているセリフという気がしない。こちらの心が揺さぶられないのだ。彼女の動きが表に出てくるまでに、一体何が行われているのだろうか。


文化を問わず、生命力がそのまま発現されているときに人はそれに共感し、感動する。スポーツにしてもそう。野球やサッカーにしても、ただの球遊びと言ってしまえばそれまでのものなのに、自分の全ての能力を動員して本気になるから人もそれを見て感動するのだ。そこはもう理屈を超えた領域のできごとなのだ。*1

*1:写真は「toshiの写真箱」