武術の修行とは

bon-naoto2007-06-02

現在、武術として、太極拳合気柔術をやっている。どちらも、力ではなく、身体の合理的な運用によって、相手を制するという高度な技芸を要する武術である。


かような特性のものであるので、年齢や体力は殆ど関係がなく、意識の高度な使い方が求められる。まともに「やった」と言えるまでには、何十年もかかるだろう。始めて3年が経ったが、3年位では、初心者もいいところである。


同じ型をやっているようでも、入門者と上級者では、その中身が全く異なる。上級者ほど自分の持てる身体を余すところなく活用できる。すなわち全身に意識が行き届いており、またその意識にもムラがない。


「全身運動」という言葉があるが、もともと全ての運動は全身を使って行うものである。自分の持てる資源としての身体をどれだけ活用できるかで、その内容が決まる。この世界は果てしがないと言ってよい程奥深いものだ。


さて、もともと武術は「護身術」である。外敵から身を守るために、文化として発展してきた身体技法の体系だ。昔は直接自分の身体に危険をおよぼす野獣や猛獣がすぐ側におり、また現代ほど、警察や法律などが整備されている訳でもなく、地域同士の争いも頻繁にあったから、「自らの肉体を生命の危機から護る」ことは、重要なテーマであった。


現代は、昔の時代とくらべて直接の「肉弾戦」よりも「情報戦」の方が高い比率を占めているように思える。でも、武術の存在意義がそこで薄れるかというと決してそうではない。


始めて3年ほどの若輩者の私がこんなことを言うのもたいへんおこがましいのであるが、「武術の本質」とは、「いかなる状況におかれても最善を尽くす」ことにある。生命の危機という、最も心を乱される状況の中でも、最善の対処が出来るように自らを鍛え上げていくのだ。最善の対処を行うためには、いかなる状況においても常に平常心を保つ必要がある。自らの心身を冷静に見つめる眼が必要となるのだ。


「いかなる状況においても」ということが前提となっているのだから「自分に得意な状況ならば戦える」とか「自分の得意技」のような概念は通用しない。「自分の得意」などという限定された状況でしか使えないものならば、そもそも役に立たないのだ。「得意技」なんぞに頼っているということは、「苦手な状況」を自ら認めているということになる。生命が懸かっている以上そんな言い訳は通用しない。どんな状況でも平常心を保って最善を尽くさねばならない。


さて、これは直接の「肉弾戦」のみならず「情報戦」においても同じことが言える。どんな状況でも最善の対処をすることができる自分を作り上げることは、身体を直接使う、使わないに関わらず、あらゆる文化において最重要の本質である。


武術の達人が「日常のあらゆることが最善の道場であり、修業の場だ」というのはまさにこのことなのではないか。道場で技を学ぶ、そしてそれを家で稽古する。それは勿論大事なことに違いないが、それ以外にももっと大事な修行はまさに日々の仕事をはじめとした日常生活のあらゆる場面の中にあるのだ。*1

*1:写真は「AMANO KAZAOTO 高画質館」