感覚

bon-naoto2007-06-03

本日の野口体操教室は「感覚」がテーマ。


「感覚」の「感」は、「神への言葉「祝詞」を封じ込める器である「サイ」に聖器の「鉞(まさかり)」を加えて守り、その感応を待つ」という意味があるそうだ。「神にその意をたずね、判断を任せる、ゆだねる、声を聴く」ということだろう。この「感」には「かまく」「たける」「めず」という意味があり、共通しているのは「徹底してやる」ということである。「我を忘れて没頭する」というイメージに近い。


また、一方の「覚」であるが、文字として成立したのは比較的新しいらしいのだが、これは「眠りからさめる」とか「迷いからさめる」など「さめている」の意。冷静に自分を見つめている様を指す。


この「感覚」という言葉は、「感」と「覚」の二つが絶妙にバランスを取って組み合わされている。「感」の神がかりのような没頭と「覚」のちょっと突き放して冷静にそれを観察する様子。主体と客体、陽と陰、夢と現実のバランスといってもいいかもしれない。


「感」は文字通り「感ずる」のだが、それを突き詰めていくと、神と交信するシャーマンが神がかりになって踊ったり、歌ったり、宣託を受けたりする様子とつながる感じがする。セックスでも「感じる」というまさにそのことが根本であり、究極は忘我のエクスタシーとなる。


それは、勿論大事なことなのではあるが、しかし、神がかりの恍惚、エクスタシー状態の「イッちゃった」人たちばかりではこの世界は成り立っていかないではないか。


そこで「覚」が必要となるのだ。没頭しながらも冷静に自分自身の姿を観察している眼である。神の言葉は、現実の世界に反映させてこそ初めて意味を持つものとなる。


なにげなく使っている「感覚」という言葉。それ自体がものすごい矛盾をはらんでいると同時に、とても深い意味を持っているのだ。言葉って面白いね。*1

*1:写真は「toshiの写真箱」