柔らかい意地

bon-naoto2007-06-18

身体を緊張させ、アドレナリンを放出させ、固くさせる言葉や概念がある。「生命を賭ける」、「男の意地」、「背水の陣」、「気合を入れる」、「信念を貫く」などなど。これらの言葉は、自らを叱咤激励し、やる気を出させるものだが、これが強くなりすぎると、身体が固く硬直し、融通が利かなくなってしまう。視野も狭くなり、認識力も柔軟でなくなる。


ものごとを成し遂げるのに、やる気は必須不可欠のものであるが、それにこだわりすぎてもいけないのだ。全く人間的な矛盾というべきものなのだろうが、意識してやる気を出そう頑張りすぎたときよりも、フッと力が抜けて軽くやるときの方が結果がよかったりする。


かといって、「全くやる気なし」が上手くいくかというと勿論そうではない。「脱力」することの意味を間違えると、単なる放任、なげやり、怠惰なってしまうのだ。これでは何事もなすことができないことは言うまでもない。


ここのところのさじ加減は、非常に微妙なものであるため、結局は自らの身体に聞いて、自分で答えを出してみるしかない。どういう状態が自分にとって心地いいのかということは、まさに自分がだけが知っている。自分との対話を経ない単なる一般化やシステム化は意味がないのだ。かつての「ゆとり教育」のように、ふわふわした概念だけが一人歩きをしてしまうのである。


人間が高度に進んでいくと「矛盾があることが当たり前」になる。人間は何にでもなれるのだから、相反するものを内包して当然なのだ。しかし矛盾は単なる二律背反ではなく、同じ事象を構成している要素そのものでもある。


例えば「柔らかい意地」とでも呼ぶべきような状態。変な言葉だが、一見相反する事項が、同時に含まれている状態の時に、人間の能力は高まっていくように思う。*1

*1:写真は「toshiの写真箱」