死と覚悟

「悟り」の心境に至りたい、という願いを持つ人は多いだろう。つまらんことと知っていながら、そこから逃れられずに襲ってくる数々の悩みや煩悶から自由になりたい、という希望は人類共通の願いというべきものだと思う。


しかし、「悟り」に至る決まった道などはない。人それぞれの数だけ道があるといってもいい。そうでなければ、そもそも生きている価値などないだろう。一人一人違っているということは、一人一人の異なった価値観があり、人生があるということである。


さて、それを前提としたうえで、「悟り」に至る近道があるとしたらそれは何か。ひとつには「覚悟」を決めることだと思う。


「覚悟」とは「覚」と「悟」の二つの「さとる」が組み合わさって出来ている。これには、とても深い意味がある気がする。


では、何に「覚悟」するのか。それも正に一人一人異なるテーマだろうが、全ての異なった人生の中で、唯一の共通体験がある。それは「死」だ。


アメリカ大陸の現住民族であるインデアンは、戦いに赴くに際し、「今日は死ぬには最高の日だ」と叫んだそうである。眼の前に差し迫ってくる「死」から目をそらすことなく、逆に自らの生を最大限奮い立たせるためのよすがとして利用したのだ。


昔日の日本の武士もおそらく同じ心境だったに違いない。侍が、太刀(長い刀)のほかに脇差(短い刀)の計2本の刀を常に差していたのは、何かあったらいつでも脇差で腹を切る覚悟の現われであった。そんな彼らこそ真の勇士である。


人間はいつ死ぬか分からない。そして、人の一生はいつまでも続くものでもない。月日は思いのほか速く過ぎ去る。2007年も、ついこの間明けたと思ったら、もういつの間にか半分が過ぎてしまっている。何十年後かは分からないが、自分もこの世からいなくなる日が必ずくる。


人の一生も年齢では計れない。ちょっと位長生きをしたからといって、殆ど違いはないといっていいかもしれない。大切なのは、長さという計測化できる「量」よりも、計測不可能な「質」の方である。


覚悟を据えて、死というものから目をそらさず見つめ続けたとき、生も最大限に光輝くのである。